78CDR-3845
ヨハン・シュトラウス 2世(1825-1899)
美しく青きドナウ作品314
オーストリア生まれの作曲者J.シュトラウス2世(1825-1899)は「ワルツ王」とたたえられ、1863年から70年にかけて宮廷舞踏会の指揮者として活躍し、1871年からはオペレッタの作曲を手がけた。「美しく青きドナウ」は1867年にウィーン男声合唱協会に献呈された。普墺戦争(1866年6月14日-8月23日)(プロイセン=オーストリア戦争)敗北後の沈滞した空気からウィーンを立ち直らせるための曲として作曲された。初演はそこそこの成功だったが、1867年4月にパリ万博が開催され、パリのオーストリア大使館のイベントで、臨席したフランス皇帝ナポレオン3世からも絶賛をうけ、フランス語の新しい歌詞がつけられ、パリの人々によって口ずさまれた。さらにシュトラウス2世はロンドンに渡り、ここでもパリと同様に絶賛された。復刻には「音のエジソン」
http://www.otono-edison.com/ SPレコード専用MC型カートリッジ(3mil針)とコルグのNu 1DSD録音機を使用した。
近衛秀麿指揮新交響楽団
PARLOPHONE E 10022/3(JP)30cm盤 4面収録 1930年頃録音
SPレコード時代のパーロフォン・レコードは昭和4年-8年(1929-33)に日本で販売された。その後日本コロムビアに統合された。近衛秀麿(1898-1973)は指揮者、作曲家。東京帝国大学文学部を中退して1923年ヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバー(1890-1956)に師事した。ヨーロッパ滞在中にベルリン・フィルを私費で雇い、指揮者デビューをした。1925年、山田耕筰(1886-1965)と共に「日本交響楽協会」を設立、このオーケストラは後に「新交響楽団」(新響)となり、近衛は1935年までこの楽団の指揮者をつとめた。新響は1951年にNHK交響楽団(N響)になった。近衛と新響の録音は、30cm盤4面 (通常は2面)収録だが、これは機械式録音の最末期にあった近衛の師クライバー盤(独 VOX 01896/7)(1925年9月機械式録音)の4面録音に倣ったものと想像する。
マリア・イヴォーギュン(ソプラノ)
レオ・ブレッヒ指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
HMV DB4412(U.K.) 30cm盤片面収録 ドイツ語歌唱 1933年ベルリン録音
マリア・イヴォギュン(1891-1987)はハンガリー生まれのソプラノ。ウィーン音楽アカデミーで学んだ後、1913年指揮者のブルーノ・ワルター(1876-1962)の紹介でミュンヘンのバイエルン国立歌劇場でプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」のミミ役でデビューした。1917年バイエルンの宮廷歌手の称号を授与された。1921年にテノール歌手のカール・エルプ(1877-1958)と結婚し、カップルは熱狂的な嵐を引き起こした。その後ベルリン国立歌劇場の専属となり活躍した。1932年にカール・エルプと離婚し、1933年ピアニストのミヒャエル・ラウハイゼン(1889-1984)と再婚した。しかし、目の病のためオペラのキャリアを終えた。その後はベルリン高等音楽院の教員として後進の指導にあたった。さらにウィーン音楽大学(1948-1950)でも教鞭をとり、再びベルリン高等音楽院の教授となり、人生の最後をスイスで過ごしたが、事実上盲目だった。門下生にはエリーザベト・シュヴァルツコプフ(1915-2006)、リタ・シュトライヒ(1920-1987)、イヴリン・リアー(1926-2012)などがいる。1987年10月3日スイスのベアテンブルクで死去。享年95歳。指揮者のレオ・ブレッヒ(1871-1958)はドイツのユダヤ系指揮者。1908年にベルリン国立歌劇場の指揮者に任命され1937年までに2846回の公演を指揮した。1937年ラトヴィアのリガ国立歌劇場の音楽監督に転出し、1940年ラトヴィアがソビエト連邦に占拠されると、モスクワやレニングラードに客演して大成功を収め、モスクワ音楽院の院長を要請された。ブレッヒはこれを断りリガに戻ったが、1941年ドイツ軍がリガに侵攻したとき、親しかったナチスの文芸部員の仲介で秘密裏にスエーデンに亡命、かねてから要請されていたストックホルム王立歌劇場の音楽監督に就任した。
アダ・サリ(ソプラノ)
カール・アルヴィン指揮 管弦楽団
GLAMOLA ES459(Czechoslovakia) 30cm 盤片面収録 ドイツ語歌唱
1934年1月録音
アダ・サリ(1886-1968)はポーランドのコロラトゥーラ・ソプラノ歌手、女優で教育者。20世紀前半にヨーロッパの歌劇場やコンサート・ホールのステージで絶賛された。ウィーンやミラノで声楽を学んだ後、ローマでデビュー。ヨーロッパ各地の舞台を踏んだ後、南米、北米で名声を高めた。その後ワルシャワに戻り教育者に専念し1968に没した。1985年以来「アダ・サリ声楽コンクールが開かれている。指揮者のカール・アルヴィン(1891-1945)はドイツのケーニッヒスベルグ生まれ。ベルリンで勉強した後1910年にベルリン宮廷歌劇場、1912年からバイロイトで補助指揮者、1913年にはハレ、1914年にはポズナニ、1915-1917年にデュセルドルフ、1920年までハンブルク、1920-38年はウィーン国立歌劇場の指揮者をつとめた。ナチスのウィーン侵攻でユダヤ人だったアルヴィンはアメリカに移住し、シカゴ市民歌劇場(1939/40シーズン)、その後メキシコに行き1941年から1945年までメキシコ・シティ歌劇場を指揮し、また音楽院で教えていた。アルヴィンは1920年-33年まで、名ソプラノのエリーザベト・シューマン(1888-1952)と結婚していた。