78CDR-3842
ヨハン・シュトラウス 2世
春の声 作品410
オーストリア生まれの作曲家J.シュトラウス 2世(1825-1899)はJ.シュトラウス1世(1804-1849)の長男。1844年自らの楽団を組織してヨーロッパ各地で演奏しウィンナ・ワルツの全盛時代を築いた。彼は「ワルツ王」とたたえられ、1863年から70年にかけて宮廷舞踏会の指揮者として活躍し、1871からはオペレッタの作曲を手がけた。
「春の声」は1882年に親友のピアニストで作曲家でもあったアルフレート・グリュンフェルト(1852-1924)に捧げられ、コロラトゥーラ・ソプラノ歌手ビアンカ・ビアンキ(本名ベルタ・シュヴァルツ)がアン・デア・ヴィーン劇場でフランツ・ヨーゼフ皇帝とエリーザベト皇后の臨席のもとにオーケストラ伴奏付の歌曲(歌詞はリヒャルト・ジュネによる)として発表した。
復刻には「音のエジソン」
http://www.otono-edison.com./ のSPレコード専用のMC型カートリッジ(3mil針)とコルグのNu 1DSD録音機を使用した。
(1)エルナ・ベルガー(ソプラノ)
ワルター・ジュスキント指揮 フィルハーモニア管弦楽団
ELECTROLA DB 6951(Germany) ドイツ語歌唱 1949年5月25日アビー・ロード録音
エルナ・ベルガー(1900-1990)はドイツの名ソプラノ。指揮者のワルター・ジュスキント(1913-1980)はプラハの生まれ。プラハ音楽院で作曲とにピアノを学び、さらにプラハのドイツ・アデミーではジョージ・セルに指揮の指導を得た。ナチスの迫害を逃れてイギリスに移住した。LP初期に HMVのハウスコンダクター的活躍をした。
(2)マリア・チェボタリ(ソプラノ)
ロベルト・ヘーガー指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
COLUMBIA JD6029(JP) ドイツ語歌唱 1935年12月19日ベルリン録音
マリア・チェボタリ(1910-1949)はルーマニア国籍のソプラノ。ドレスデン国立歌劇場の音楽監督フリッツ・ブッシュに見いだされ、その後ベルリン国立歌劇場に移り、看板歌手となった。戦後はウィーン国立歌劇場に出演、「モーツァルト・アンサンブル」の一員として活躍した。1949年肝臓癌のため39歳で死去した。指揮者のロベルト・ヘーガー(1886-1978)はドイツ生まれ。1933年から50年までベルリン国立歌劇場の指揮者だった。
(3)エルナ・ザック(ソプラノ)
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
TELEFUNKEN E 1774(Germany) ドイツ語歌唱 1935年4月2日ベルリン録音
エルナ・ザック(1898-1972)はベルリン生まれ。 "ドイツのナイチンゲール" と言われ人気を得た。戦前の批評家あらえびすはその著書「名曲決定盤」で彼女の魅力を述べていた。指揮者のハンス・シュミット=イッセルシュテット(1900-1973)はドイツ生まれ。ハンブルク国立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラ総監督、戦後は北ドイツ放送交響楽団の指揮者として活躍した。
(4)ミリッツァ・コリュス(ソプラノ)
ルートヴィヒ・リュート指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
ELECTROLA EH-860(Germany) ドイツ語歌唱 1934年1月録音
ミリッツァ・コリュス(1909-1980)はポーランド生まれのコロラトゥーラ・ソプラノ。ヨーロッパ屈指のコロラトゥーラ・ソプラノだったが、アメリカに移住しハリウッド映画のスターとして、またコンサートでのキャリアを積んだ。女優としてハリウッド映画「グレート・ワルツ」で1938年度アカデミー助演女優賞を受賞した。
(5)クララ・クライルベール(ソプラノ)
アルベール・ウォルフ指揮 管弦楽団
POLYDOR 35016(JP) イタリア語歌唱 1933年録音
クララ・クライルベール(1899-1970)はベルギーのソプラノ。第1次世界大戦中、コーラス隊で歌っていた時コーラス・マスターの目にとまりパリでソリストとして訓練された。大戦後、退役兵士や負傷した兵士の慰問コンサートに度々出演し、その結果ブリュッセルのモネ歌劇場のディレクターの目にとまった。その後1920年代から1950年代の引退までモネ劇場のプリマドンナとして活躍した。1970年ブリュッセルで死去した。
(6)フェリシー・ヒュニ=ミハチェック(ソプラノ)
オーケストラ伴奏
POLYDOR 60150(JP) ドイツ語歌唱 1928年録音
フェリシー・ヒュニ=ミハチェック(1891-1976)はハンガリー生まれ。主にドイツで活躍した。ウィーンで声楽を学び、1916年にハンブルク国立歌劇場でデビュー。1919年にウィーン国立歌劇場でR.シュトラウスの「影のない女」の初演に参加し、1925年までウィーンに居た。1931年にミュンヘン国立歌劇場でプフィツナーの歌劇「心」の初演に参加した。1953年ミュンヘン公演を最後に引退した。